こんばんは。そして、こんにちは。
ヒクシポワタの橋本と申します。
本日は、「國史(こくし)と日本史」。
私たちは子供の頃から、日本史と世界史を学んで きました。自国の歴史を「日本史」という名前で。
しかしよくよく考えると、自国の歴史の事を 日本史と呼ぶのに妙な感じがしませんか?
例えば会社だったら、会社の歴史を「社史」と 言いますよね。 社内でわざわざ会社名を付けて、トヨタ史とか 言わないですよね。
國史と言えば内側からの言葉、日本史と言えば 外側から名付けた言葉。
そんなニュアンスがあります。
では何故、國史ではなく日本史と呼ぶのか?
戦前は「國史」が正式名称でした。
國史は、国の在り方であり、どう考えどのような 流れがあったのかを表します。 そこに年代は余り関係せず、昔からずっと言い伝え られてきた、習慣だった。などです。
我が国の場合は、神代から続く、神話からつながる お話しです。古事記ですね。
国史はその国の人達たらしめる基本になるもの。 だから否定はできない。
何が起きたか?
戦後、改定できる学問として國史とは別に教育に入れ込んだ のが「日本史」なんですね。
日本史は変更出来ます。
年代とか考古学の分野は発展や発達と共に変化する。 國史はアイデンティティーそのもの なので変化させる事ができない。
なので、考古学の概念を入れ込んで新しく日本史として、 子供達に教えた。
その國のアイデンティティーを否定すると統治が出来な くなるので、このような方法をとったようです。
國史は、長く育んできたアイデンティティーであり、外から 変えることが出来ないものだから。
もう少し説明しましょう。
例えば、キリスト教が存在して聖書がある。 そこには具体的な年代が書かれているわけでは無く、 (一部、体裁を保つために後に付け加えられるケースあり) ストーリーが書かれていて、その国(=宗教)の基本になる 考えやアイデンティティーが記されている。
それを立証できないなどと言って「キリストは存在しなかった」 などと否定する人は居ない。
そこにキリスト様がいらっしゃった。という風に伝えられて いるのだから、それは認めるべき物。 否定そのものがおかしい。
我が国も本来同じで、國史は否定されるものでは無いし、 実際に大々的に教育で否定などはしていない。
どうでしょう? 何となく言いたいこと分かってきました?
國史を否定する訳には行かないので、別個に「日本史」を作り 「改訂」できるようにして、教育に入れた。 それが今の「國史」ならぬ「日本史」というわけです。
国史では、神武天皇不在とか聖徳太子不在とか、 そのような外からの話しはあり得てはならない。 そこに済む民族がそのように考えて生きて来たことを 誰も否定はできないのです。 (戦後なら誰もが反対したはず)
だから、そこは否定せずに、國史を教えるのをやめ、 日本史だけにした。
だから、私たちは「神話」を習わない。
海外の大学で日本語や日本史を勉強するときは、 神話から教えるそうです。
日本の子供達に聞いてみてください。 神話、ほぼ知りません。何故って学校で教えないから。
だから「天照大神」を「てんてるだいじん」などと 読む子供が出てくる。子供達に罪はない。
海外の大学で日本文化を勉強すると 「日本を理解するには神話が不可欠」 と、神話からスタートします。
古事記・日本書紀を1次資料として読み、 イザナミ・イザナギ、アマテラスの神話を 日本文化の源泉として習うそうです。
なんでこんなことになったんだろう?
私が youtubeで良く見る動画は、外国人が 日本へ来て感動し、帰国してから「ジャパンロス」に なってしまうってやつです。
高級寿司店や和牛を外国人に振る舞い、その感動を 動画にしてる日本人がいらっしゃる。 毎動画、数十万再生は見られてます. これ見ると、日本食の素晴らしさに涙します。
「なぜ世界中の人が日本に来て感動するのか?」 「その源はどこにあるのか?」 「なぜ日本人自身はそれを自覚していないのか?」
日本人が自国文化の深さを自覚していないのは、 無知ではなく、自覚させない構造が作られたから なのです。
誰かが意図したかどうかは分からない。 でも結果として、何百年も続いてきたものが、 この数十年で次々と消えている。 それは事実なのです。
今の時代、もう一度、古きを知って自分たちの良さと 役割を考え直したい。
そう感じる今日この頃です。
皆さんはいかがでしょうか?
お読みいただきありがとうございました。
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