「我々の祖先はこのように語り継いできた」
「この国の人間はそのようにして生きてきた」
それが國史の土台です。
キリスト教で言えば、聖書がある。
「キリストは実在したのか?」と言い出す人はいない。
そこにキリスト様がいらっしゃった。それが前提だから。
アイデンティティに、証明は要らない。
では、「日本史」にするとどうなるか。
日本史は「学問」として設計されました。
学問には、検証がある。修正がある。改訂がある。
それ自体は悪いことじゃない。
でも、「私たちは誰か」という問いを学問のフレームに乗せてしまった。
学問には「正解と不正解」があります。
アイデンティティに正解・不正解はない。
でも乗せた瞬間、
「神武天皇は存在したのか?」「証拠は?」という話になる。
国の根っこの話が、証明できなければ否定できる話になる。
これが、「名前が変わった」ことの本当の意味です。
國史を直接否定することは、できませんでした。
そこに住む人々が長年そう信じて生きてきたことを、
外から「違う」と言える人間はいない。
だから、否定できる形に変えた。
學問にした。改訂できるようにした。
そして少しずつ、神話の授業がなくなった。
今の日本の子どもたちに、神話を知っているか聞いてみてください。
「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を「てんてるだいじん」と読む子が出てくる。
子どもたちに罪はないです。学校で教えないから。
一方で、海外の大学では日本文化の授業を神話からスタートするそうです。
古事記・日本書紀を一次資料として読んで、
「日本を理解するには神話が不可欠」と。
外から来た人の方が、よく見えているものがある。
「でも、それって誰かが意図してやったの?」
と聞かれると、私には分かりません。
でも意図があったかどうかより、
「結果として何が起きたか」の方が大事だと思っています。
結果として、
神話を学ばなくなった。
先祖の物語と自分のつながりが、見えにくくなった。
「自国のアイデンティティ」に証明が必要な空気ができた。
そして、これは「最初の一手」に過ぎないんです。
この後、
家督制度が廃止され、
相続税の仕組みが変わり、
個人情報保護法で寺の過去帳が辿れなくなり、
神棚から塩と大麻が消えた。
一つ一つは、バラバラな話に見えます。
でもある視点から眺めると、不思議なほど一つの方向を向いている。
陰謀と呼ぶかどうかは、みなさんにお任せします。
私はただ、一緒に眺めてみたいのです。
次回は、少し角度を変えて。
「宗教がないのではなく、生活が宗教だった」
というテーマでお届けします。
「いただきます」の一言に、実はどれほどのものが詰まっているか。
そういう話です。
お楽しみに。
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お読みいただきありがとうございました。
また、お目にかかりましょう。